Monologue: July 30 2012

 
郷里を望む
 
先日、1日間だけ(厳密には12時間だけ)故郷の山口へ行ってきました。
滞在はわずかでしたが、しばらくぶりに姉と沢山の話をすることができました。
郷里とは様々な出来事が重なり、随分と翻弄されましたが、
一昨年の父の死を経て、それらがようやく“まっさら”になったように思います。
墓参りの折、高台から郷里を一望しながら、小さい頃に父と見た眺めを
今にゆっくりとなぞってみました。

爽と鬱。克服することの難しさ。
 


 
 

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Monologue: July 9 2012

 
3/2 5/29 10/25
 
7/24からgalley21yo-jで始まる「高井史子展」の隣で開かれる9作家の小品展に出します。
私は小さい写真作品を1点だけ出す予定です。
http://gallery21yo-j.com

2年前、GR DIGITALで撮った写真。
父の葬儀を終えた翌日、晩年の父が菊を育てていた畑へ行き、その痕跡を10枚ほど撮りました。
中でもこのカットが気に入っています。
道具が入ったプレハブ倉庫の扉に3つの日付が書かれたメモがありました。
何のための日付か解らないのですが、3/2は30年前に亡くなった母と妹の命日です。
偶然だったのでしょうか。

母は分娩中に心臓が停止し、急遽帝王切開で赤子を救出したのですが、
やはり赤子もその日の深夜に亡くなりました。

昨年、「きこえないおと」で私が演奏するつもりだった《3/2 5/29 10/25》という作品は、
このメモの日付からきています。
震災の最中に制作していたので、正直、この演奏には準備が足りませんでした。
つまりは未完です。
あらためてこの音楽を制作しようとは思いませんが、
なんとなく、今回写真作品として遺すことにしました。

私は生まれた時から音楽のある環境に育ちました。
父も母も姉も音楽家。
楽器に馴染まなかった私だけ美術に進みましたが、恐らく聴覚は良い方なのだと思います。
私が“おと”に興味がある理由は、この生い立ちからきています。

この写真を眺めていると、“きこえないおと”が脳内を廻るのです。
http://shiigishizune.com/photography/3-08/
 


 
 

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Monologue: December 7 2011

 
「作品」「≒作品」「写真」- 芸術の所在、写真の所在、あるいは不在について
 
久しぶりのブログ更新となりました。
展覧会の会場撮影を中心としたカメラマンのお仕事を少しずつ頂いています。
しばらくはこのお仕事を生業にしつつ美術家の活動を続けていこうと思っています。

先日、東京都写真美術館で開催されたレクチャーに参加しました。
「「作品」「≒作品」「写真」- 芸術の所在、写真の所在、あるいは不在について」
と題した発表でしたが、時間の都合でお話しできなかったところが多くありましたので、
その一部分についてですが、ここに纏めておこうと思います。(それぞれ写真をクリックすると拡大表示されます)
 

Courtesy the Estate of Koji Enokura, Photography Taken by Shizune Shiigi

この写真に写っている冊子は、1970年に開催された「第10回日本国際美術展〈人間と物質〉」
が京都へ巡回した際に刊行された二分冊目の方の図録です。
中平卓馬さんの写真が表紙を飾ったことでも有名な一分冊目に比べて発行部数が少なく、
一般にあまり知られていない図録です。
東京展で刊行された一分冊目の図版には各作家による出品作の制作段階におけるエスキースが掲載されています。
二分冊目の図版には東京展の展示風景の写真が掲載されていて、巻末のクレジットによると、
撮影は原栄三郎さん、大辻清司さん、安斎重男さんと、一部作家自身によって行われています。
右頁が私の大学時代の恩師・榎倉康二さん (1942-1995) の掲載頁で、
頁の上の方の写真は大辻清司さん (1921-2001) によって撮影されています。(*1)

私は、随分前から榎倉さんと大辻さんの写真作品に共通点を感じていました。
このことは「《写真》見えるもの/見えないもの」展で大辻さんの作品を展示した理由として
少なからず関与しています。
光田由里さんもその共通点にお気づきで、図録に寄せて頂いた論考
「メタ写真と私性 - 中山岩太 大辻清司 榎倉康二 高松次郎」でも触れられています。

最近の出来事ですが、〈人間と物質〉展で大辻さんが撮影した榎倉さんの展示風景のモダンプリントが、
榎倉さんの奥様に手渡ったことを耳にしました。
私はレクチャーに際してこの写真のことを触れようと思い、特別にお願いして複写させて頂きました。
下が複写した写真です。


Courtesy the Estate of Koji Enokura and the Estate of Kiyoji Otsuji, Photography Taken by Shizune Shiigi 

搬入時の風景で、作業する榎倉さん(右から2番目)も写っています。
私は、大辻さんの写真への取り組み (*2) を私なりに引用し、”教材としての写真” を制作しようと考えました。
榎倉さんの写真作品 (P.W.−No.127, 1994) の被写体にもなった机の上に大辻さんの写真を置き、
私がいつも作品で使用する8×10のカメラで撮影しました。
先述の〈人間と物質〉展図録の複写も8×10で行いました。
図録を置いた台も同様に榎倉さんの写真作品 (P.W.−No.15, 1972) の被写体として登場する道具函です。
父である画家・榎倉省吾さんが使用した道具函を榎倉さんが継いで使用していました。
プリントや図録、置かれた台たちが歩んだ時の重みを感じつつも、
日中の光に包まれた室内での穏やかな撮影になりました。

ここで注意しておきたいのは、私が撮ったこれら2つの写真は “教材としての写真” だということです。
つまり “作品” ではありません。
特に2つ目の写真に写っている “写真” には、榎倉さんの作品にまつわる状景が写され、
且つそれは当時の大辻さんによって撮られたものであって、
私はその経緯の中に作家として何ら関与していません。
作家である私がどんなカメラで複写したところで、
それはあくまでレクチャラーとしての “教材” を制作したに過ぎません。
私の論の核心は、2人の作家の没後に偶然の重なりでプリントが手渡った事そのものが “芸術” だと
考えたところにあります。
作品と作品写真、作品と仕事、それぞれが結びつかない相対でありながら、
時を経て、当人の意志とは別の次元のなかで、少なくとも私の認識のなかで、
それが “芸術” として存在するのです。

今、私は作品を撮る仕事に就いていますが、そこでつくられる写真は “作品” ではなく “写真” です。
高松次郎さんの《写真の写真》とは異なり、会場撮影や作品撮影というものが《作品の作品》とは認識し難い
領域なのだと感じています。
しかしながら、その仕事に誠意を込める毎日が、不思議なことに非常に面白いのです。

大辻さんが撮った2つの榎倉作品の展示風景には、共に、油に映り込んだ蛍光灯が写されています。
仕事のなかに作家としての感性がしっかりと働いているのがよく分かります。
 

*1 下の方の写真は原栄三郎さんによる撮影です。
*2 1975年の『アサヒカメラ』に連載された「大辻清司実験室」に代表される評論と実作の統合。

 
 

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Monologue: August 22 2011

 
斉藤哲郎さんを偲ぶ
 
お盆は「プロジェクト FUKUSHIMA!」の手伝いのため福島市に滞在しました。
その福島から戻った翌日、
8月初めに亡くなられた斉藤哲郎さんのお宅へ伺い、お焼香をあげてきました。

斉藤さんは美術出版社にお勤めだった方で、2年前までは『美術手帖』の編集員でした。
初めてお会いしたのは斉藤さんが『美術手帖』に所属していた2007年のことです。
私が企画に参加した「《写真》見えるもの/見えないもの」の展評の取材にいらして、
評者の鷹見明彦さんも加わり、会場をご案内しました。
この折、翌月号の『美術手帖』の展評欄に
「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」の展評を掲載する事が決まっているので
その原稿を依頼するかも知れない、と斉藤さんが私に仰いました。
私は「《写真》見えるもの/見えないもの」で会場構成から物故作家の作品選出の大半を担当しました。
その説明ぶりが斉藤さんの目に留まったようで。
「私は評論家じゃないので、なるだけ他の評者候補の方を優先的にお選び下さい」
と申したのですが、数日後、結局私に依頼が来たのでした。

「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」は同時期に渋谷区立松濤美術館で開催された、
光田由里さんによる企画展です。
写真研究の第一人者であられる光田さんが企画した展覧会に対して私が物申すなんてとんでもない事態。
まして大辻さんの作品に触れなければならない訳ですから。
いやはや、にわかに大変な思いをしました。
締め切りまで残り少なかった上に、展覧会も会期末に至っていました。
取り急ぎ私に出来る事をと、
誌面用の会場写真を撮りに台風の中を8×10かついで松濤美術館へ伺い、
撮影と取材を行いました。(ちなみに斉藤さんは所用で同行していません。)

光田さんとは、実は「《写真》見えるもの/見えないもの」で大辻さんの作品の借用にご協力頂いたり、
図録へのご寄稿とシンポジウムへのご出演を頂いていたこともあり、
「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」の準備段階からいろいろお話を伺っていましたから、
何を質問すれば良いかはある程度理解していました。
ほかにも大辻さんの著書『写真ノート』を所持していましたので、
光田さんと大日方欣一さんが編んだ図録と併せ、それらをくまなく読むことで、
私なりの文章を組み立てることができました。
(誌面のレイアウト案までイラストレーターで作成し、余計に右往左往しながらの模索でした。
勿論、レイアウト案はデザイナーさんに却下されましたが。)

入稿して、斉藤さんの校閲後に返ってるゲラの文面は、大幅に語気を変えられたものでした。
戸惑いつつも、でも斉藤さんがメールに添えたコメントは私の文章を評価しておられるので、
めげずに推敲を続けました。
恐らく4、5稿ぐらいはやりとりしたと思います。
http://school.bijutsu.co.jp/bt/200709/

いや、当時は時々不快に思ったことは確かです。
でもある時知り合いから
「編集者は直して当然であって、むしろ書かせたい人に書かせたい内容を書かせるのが本来の編集者だよ」
と教えられました。
斉藤さんは僕の展評に本気で取り組んで下さったのだと、その時ようやく気づいたのです。

以来、展覧会場などで斉藤さんを見かける度にお話しするようになり、
多くの機会ではなかったのですが、気持ちの上で親しくさせて頂きました。
斉藤さんは同じ72年の生まれで、生まれ月(3月)ごと同じでした。
そして娘の年齢も同じ。
様々に共有できるところがありました。

一昨年の夏、体調を崩されたと聞きました。
後で腫瘍が見つかったのだということも知りました。
(この休職の以降に『美術手帖』から外れてしまったようです。)
退院後の10月、藝大美術館での「異界の風景」のレセプションで久々にお見かけした斉藤さんは
非常に痩せこけていて、その姿にかなりのショックを受けました。
今思えば、そのような体調にも関わらず外出なさった訳は、
「異界の風景」が鷹見明彦さんの企画構成による展覧会だったからだと理解します。

斉藤さんが美術出版社に入社なさったのは2001年。
配属された『美術手帖』では「画家たちの美術史」を担当なさいました。
この記事の初期を寄稿なさったのが鷹見明彦さんで、
鷹見さんは美術誌に不慣れだった斉藤さんをいろいろお世話したようで、
斉藤さんはその恩を通しておられたのだと思います。

今年3月の鷹見さん訃報の折、斉藤さんから私に偲ぶ会のお知らせの電話を頂いたのが、
斉藤さんとの最後の会話となりました。

斉藤さんは死の淵に居ながら、
お世話になった方が亡くなられた際はご自身を棚上げして故人を気遣っておられました。
渡辺好明さんが亡くなられた時も、極寒の藝大取手校地での偲ぶ会に斉藤さんは列席していました。
斉藤さんにとって「死」は、いずれ近々、引き受けることになるかも知れない境遇でした。
斉藤さんは身近な方の「死」を見つめることで、
ご自身の不安を和らげていたのではと私は思うのです。

とても聡明なお方でした。
もっと永く関わりたかったです。

斉藤さんとは短い間でしたが、生涯忘れ得ぬ出会いと別れになりました。
心から感謝します。
ご冥福をお祈り申し上げます。
 


 
 

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Monologue: August 4 2011

 
福島を見つめる
 
陸前高田から戻ったある日、
NHKで「ふくしま希望市場」の事を知りました。
http://www.kibou-ichiba.jp
私には娘が2人居ます。
内1人は0歳児ですので、こと放射線に対して慎重に調べています。
踏まえておかなければならないのは、
線量が高いとはいえ水や空気が綺麗な地域で作られ丁寧に計測された作物のリスクと、
排ガスにまみれた都市部で作られた作物のリスクについて、
もっと然るべき比較がされてもいいように思うのです。
しかしながら私の日常は、子供達の被曝感受性を鑑み、
残念ながらこちらから作物を買うことができないでいます。
この矛盾がとてもジレンマです。

ツイート上で「ふくしま希望市場」の事を触れた直後、
音楽家の大友良英さんが私をフォローなさいました。
大友さんは今「プロジェクト FUKUSHIMA!」という活動をなさっています。
http://www.pj-fukushima.jp
私は、大友さんから私に接して下さったのを切っ掛けに、
福島の事をよりもっと考えるようになりました。

そんな意識もはたらいて、8月1日に福島の楢葉町で録音作業を行いました。
http://bit.ly/recording_point_naraha
福島第一原発からちょうど30km圏です。

私はアクティビストになるつもりはありません。
5月7日のブログにも書いたように
“災害に対峙する自身の意識の確認ではなく、その表明でもなく、
あくまで社会の事情からのまったくの飛躍”
という基軸から外れないよう心がけています。
しかし今の私が何をしているかを形容するのはとても難しいのです。

震災直後の夜、
計画停電があった最中に自宅の窓を開けて音を採取しましたが、
その音はむしろ騒音だらけで、音質も不快でしたので、作品化を諦めました。
対して、福島で録った音はとても澄んでいました。
自宅でその音を聴いて、
何の調整も要らない音だとわかり、そのまま作品にしました。
“2011”というのがその音です。
http://shiigishizune.com/2016/09/17/022/

夕暮れから夜にかけての録音作業。最後にはとても深い闇に包まれました。
 


 
 

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Monologue: July 20 2011

 
6月
 
ある程度定期的に更新しようと思っていたにも関わらず、
不毛な自問自答の日々を過ごしてしまい、
ついに6月はブログを更新できませんでした。

6月に入って、なかなか手つかずだった庭づくりに着手し、
植木を植えたり、砂利を敷いたりしていました。
慣れない作業ですが、植木屋さんに植え方を教わったりしながら、
しだいに朝夕の水やりが毎日の日課になりました。
ほとんど日課を設けない私にとっては大きな変化です。

そんな中、6月末に岩手・陸前高田へ行きボランティアに参加してきました。
家や田んぼの瓦礫撤去など、人手の少ない時期だった上に暑さも加わり、
予想以上の重労働でした。

被災地は総力を上げて頑張っています。
地元の方はもちろん、全国から集まるボランティアの人達も。
悲痛さを振りはらって、常に前を向いていました。

原発の影響で生活がどんどん鬱屈していた時でしたので、
実は日本がとても嫌になっていました。
いまだに好きになれていませんが、
でも、あえて日本にこだわってみようと思うのです。
 


 
 

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Monologue: May 31 2011

 
《反》を唱える
 
台風が来て、気圧の変化からか喘息になり体調を崩しました。
さして何もしていない日々なのに、更に身体まで儘ならないでいると、
自身の無能さが際立ってきて情けなくなります。
こういう時に限って何の打開にもならない考えごとに耽ってしまうので、
余計にたちが悪いです。

そんなこの数日、《反》について考えていました。
例えば、戦後日本の美術家達が《反》にこだわった理由について。

《反》は否定の姿勢。
大義はどうあれ、民衆の生活になんら恩恵のなかった戦争は、
戦後になって否定しなければならない過去になりました。
広島、長崎で起きたことは屈辱的な壊滅だった訳で、
《反》はそれを知る民衆の責任だったのではないでしょうか。

その時代に居なかった私が知ったようなことを言いますが、
でも最近、その幾らかは分かるようになりました。
今、再び《反》を唱えなければならないように思うのです。

その前の問題として、私の身体の具合のだらしないことときたら。
 


 
 

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Monologue: May 21 2011

 
景色のいま
 
今日は被写体探しにと、自宅の付近を歩きました。
ここに住まいを移してから、所用の移動以外で巡ったことがなく、
前から気になっていた辺りを見てきました。

鎌倉街道跡の傍らにある三貫清水という古池。
由緒の割に綺麗でないと聞いていました。
確かにあまり綺麗ではありません。
眺めながら、一旦は却下かなと思ったのですが、
しばらく考えて、むしろ今だから撮ろうかなと思い始めています。

私の住まいの辺りは震災の被害が殆どありませんでした。
放射能による家族への影響の心配が漂っていても、
景観の中に変化は見受けられません。
だからと言って、私が特別に変わってしまうのも違うように思うのです。

今だからこそ「いま」をありのまま引き受けるという選択から。
 


 
 

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Monologue: May 7 2011

 
きこえないおと
 
3月19日はイヴェントを開く予定でした。
10年勤めた大学の在職最後の記念にと、音を主体に企画しました。
http://dazzling-garando.com/event/flier.pdf

ところが前の週に震災が起きてしまい、随分悩みましたが、
結局中止にしました。(気持ちとしては無期延期のつもりですが。)

19日はよく晴れた行楽日和になり、
一部の美術館なども再開したので、界隈は久しぶりに賑わいました。
する事なく自宅に居た私は強い敗北感に襲われました。

学内の企画が全て中止になっていましたから、
実施の選択はどのみち難しかったのですが。
ただ正直なところ、震災が起きて平常ではなくなってしまったことで、
その状況までも背負うことができなかったというのが本音です。

私が美術家としてやろうとしていることは、
災害に対峙する自身の意識の確認ではなく、その表明でもなく、
あくまで社会の事情からのまったくの飛躍です。

芸術は災害を速やかに治すことができません。
芸術はこういう時ほど時間をかけるしかないのです。
 


 
 

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Monologue: April 30 2011

 
この半年
 
昨年11月、山口に住む父が膵臓癌で亡くなくなりました。
寂しさはあれど、正直大きな悲しみはやってきませんでした。
この20年来父との関係はあまり良くなく、
すでに私は望郷の想いを奥底へ抑え込んでしまっていたのです。

翌12月に引っ越し、年明けて第二子が産まれ、
3月には震災、そして任期終えた職場を退職しました。
自身の節目が次々とやってくるうちに、
もう振り返ることのない過去についての興味を失っていきました。

引っ越ししてから未開封のままだったダンボール箱や、
職場から引き上げた荷物で宅内がごった返してしまい、
この4月はひたすら片付けの日々に。
余分な物をどんどん処分したのですが、なかなかに収まりつかず、
苛立ちの果てに、実家の頃のものは殆ど捨ててしまいました。
ダンボール箱ひとつに収まっていた幼い頃のアルバムも、
この前姉から届いた臍の緒も。

別方、今日の午後は写真館へ行き、下の娘の誕生記念にと
家族写真を撮りました。

残す「いま」と 捨てる「過去」。
家族の肖像をめぐる私の想いは、時を重ね、酷く屈折してしまったようです。
 


 
 

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